90年台の日本人ドライバー

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中嶋が引退した後、鈴木亜久里、片山右京などがメインとなったF1GPになった。90年鈴鹿での鈴木の表彰台は新鮮な驚きを持って伝えられた。この年はジャンアレジのデビュー(正確には89年フランスGPだが)レースでのセナとのバトルやアレジ・中嶋の在籍するティレルチームが斬新なアンヘドラルウィング(今のハイノーズの先駆けであった)を出してくるなど色々な見所があったように思う。

上位陣のゴタゴタがあったにせよ(セナ・プロストの1コーナー接触、翌周のベルガーコースアウト、マンセルのドライブシャフト破損など)、レース中にファステストを連発させながら上位に上がっていた走りは賞賛に値する内容だった。国内時代にも苦労してチャンピオンになり、F1デビュー年はまさかの全戦予備予選落ちという屈辱から這い上がってきた結果だけに私もとても嬉しかった。



ただ90年鈴鹿の亜久里3位表彰台以外は中々結果が出ないシーズンが続いたように思う。しかしあくまでリザルト的な結果であって「印象に残る走り」は何度かあったように思える。特に片山に関しては・・・。

ここをお読みになっている皆さんも印象に残っているとしたらやはり94年の片山右京の走りであろう。94年といえば多くを語らないがサンマリノGPでの悲劇を生んだシーズンである。
予選でもサードローを獲得2回(確かドイツGPとハンガリーGP)、圧巻はドイツGPである。予選5位からスタートした片山はスタート直後の先頭集団の波乱にも助けられ、2位に浮上。その後3位を快走する走りを見せた。マシントラブルによってコーナーでスピンしリタイアと終わってしまったのだが、それまで3位をキープし続けた力強い走りは見ていた方にも強烈な印象を残した事かと思う。

私個人的なベストレースといえるのはイタリアGPであろう。リザルトこそリタイアであったが決勝中に3位表彰台のハッキネンを2回もオーバーテイクしてみせたのである。レース後ハッキネンに「あのマシンの速さは凄い」とまで言わしめた快走であった。

この年の片山の獲得ポイントは5点。僅か5点である。そしてこのポイントが片山のF1総獲得ポイントとなった。しかし記録より記憶に残る・・とはよく言ったものでこの年の片山は間違いなく記憶に残る「魅せる走り」を見せてくれたと思う。

後日談であるのだが、この年にベネトン(現ルノー)のフラビオからベネトンNo.2のオファーがあったそうだ。No.1は誰あろう今や7度の年間王者ミハエル シューマッハである。
しかし片山は日本人が故の義理・人情を考えた上で(スポンサーの絡みもあったそうだが)ティレルヤマハに残ることに決めたのだ。しかし翌年以降はマシンの不調に加えチームのサロ優先の態勢に翻弄され、焦りから目立った結果を残せず(本人はこの年自分はもっと速く走れるのに・・というジレンマで相当苦しんだと思う)、シートを失いかけてしまう。特に95年ポルトガルGPでのクラッシュが相当ダメージを残したようである。
結果ミナルディに1年在籍したのちに引退となる。ミナルディ時代にチームメイトとなったのが今年トヨタに在籍するヤルノ トゥルーリである。片山はこのミナルディにやってきた新人ヤルノを見て彼は間違いなくチャンピオンになれるくらいの速さ・素質を持っていると言ってのけた。昨年モナコGPで念願の初優勝を決め、速さを見せている彼の素質を1年目で見抜いたことになる。

「たられば」は無しであるが、もし・・・片山の95年ベネトン移籍が実現していたら。ご存知の通りミハエルが94~95年と連続チャンピオンに輝いたチームであり、95年はNo.2のジョニーハーバードが「2勝」を上げたシーズンであった。・・片山の人生が大きく変わった可能性が否定できないと思う。
当時のマシンはミハエル仕様と言われるセッティングがかなり偏ったマシンであったと言われ、それ故ジョニーも苦しんだそうだった。それでも「2勝」である。片山とジョニーがダブって見てしまうのは日本人故だからだろうか。

しかし90年の鈴木もそうだがベネトンのオファーを断った翌年からチームの調子が悪くなるという状況は本当に運が悪いというのか判断を間違えたというのか、何とも言えない不幸な話である。特に鈴木の場合は本当に義理だけで(当時のエスポオーナー伊東氏への義理。のちにバブル崩壊後逮捕されてしまう)残留を決定したのであるから・・。

そして高木・井上・中野と日本人が挑戦するも、ポイントを獲得できたのは中野だけ(中谷明彦はF1参戦が決まっていたにもかかわらずライセンス発給が行われず結局参戦出来なかったが)。そして日本人が不在のシーズンが暫く続く事になる。

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そんな折、イギリスから聞こえてくるニュースに耳を傾けるようになった。若手の台頭である。佐藤琢磨という聞きなれない名前がイギリスF3で表彰台、予選ポールなどという普段聞きなれない(笑)嬉しいニュースが飛び込んでくる。結果2001年の年間最多勝タイ(アイルトンセナと並ぶ)でイギリスF3チャンプになる。同じ時期フランスF3の福田、ドイツF3の金石が揃って2001年にチャンプになるという驚きのニュースもあった。また2001年には佐藤がBAR HONDAのテストドライブを行うなど、この3人の中から近い将来F1のステアリングを握る者が出てくると確信していた。特に佐藤に関してはマルボロマスターズ、マカオGP制覇(マカオはスカパーで当時観戦したのだが、本当に危なげない堂々とした走りで独走優勝であった)と一番F1に近かったように思う。しかもまだレース歴5年そこそこの若者である。期待しない方がおかしいというものである。

そして2002年シーズン遂に佐藤はジョーダンホンダからのフル参戦が決まった。ここから新たな、そして過去最高のリザルト(結果)を残すF1日本人ドライバーの歴史が始まる。